林一記、レアな宗教を学ぶ②

8.東アジア反日武装戦線(現状:活動休止)

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 1960年代後半に設立された武闘派極左集団。歴史における日本の他国への侵略や少数民族への弾圧を嫌悪する学生を中心として、アイヌ、沖縄人、在日民族などが一緒に暮らせる完璧に調和のとれた社会を目指そうとした。

 1974~1975年にかけて企業を狙った爆破事件を起こし、特に8人が死亡、多数が負傷した三菱重工業本社爆破事件で、集団は警察に一斉検挙され、首謀者のひとり、大道寺将司に死刑判決が出た。彼はのちに爆破事件を謝罪し、自分たちが引き起こした事件は正当化できるものではないとした。

林一記、レアな宗教を学ぶ①

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 1977年、千乃裕子が創設した奇妙な装束のカルト集団。電磁波が環境破壊の諸悪の根源で、将来謎の10番目の惑星が現れて地球の磁極を狂わせ、人類の滅亡をもたらすと説いた。さらに彼らは共産主義者が電磁波で攻撃してくると信じている。攻撃から身を守るために、信者は全身真っ白な装束で身をかため、手術用マスクをつけて、移動にも白いバンを使う。

 

 彼らが世間の注目を浴びたのは、2003年に多摩川に迷い込んだ野生のゴマヒゲアザラシを拉致しようとした事件だった(このアザラシはタマちゃんとして国民的アイドルになった)。地球滅亡を阻止するために、アザラシを自然に返さなくてはならないと信じていたのだ。

 

 その一ヶ月後の4月、この集団はいきなり東京西部の道路を占領して、ガードレールや木を並べてバリケードを作り、5月15日とはじき出した人類滅亡の日に備えてシェルターをこしらえているのだと説明した。しかし、その日になっても滅亡はなく、教団は5月22日だと計算し直したが結局この日もなにも起こらなかった。その後、教団は世間から忘れられた。

林一記、ネットは信じないんです②

10.幸福会ヤマギシ会 (現状:活動中)

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養鶏農家を営んでいた山岸巳代蔵が、高度経済成長に疎外感、幻滅を感じた人たちのために1952年に創設した農業コミュニティ。これを発端に山岸会は日本や世界で信者を拡大していく。信者たちは小さなコミュニティの中で一緒に生活し、おもに農業に従事して、野菜や日用品を売って生計をたてる。このコミュニティの中で、信者たちはすべてのものを共有し、自由に使える。コミュニティに正式に参加するには、財産など持っているものすべてを山岸会に寄付しなくてはならない。一度、メンバーになったら、行動を厳しく規則され、さらに5歳以上子供は親から引き離され、子供だけのグループに入れられて自立できるよう教育を受ける。

林一記が考えるに、とても自然な流れも感じる。
民族の在り方を考えていくと、宗教って実は結構自然。

林一記、ネットは信じないんです①

ネットを通して海外に伝播されている「知られざる日本10の宗教的団体」
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 今やネットを通して世界各国の情報が手に入る時代となったわけだが、情報は生命体のごとく、人から人へと伝わっていく過程で、その姿が変貌していき、原型とは違った形で定着する場合も多い。

 誤った情報が定着しない為には、定期的に海外の情報サイトをチェックしていく必要があるわけなのだが、日々洪水のように流れていく膨大な情報をすべて確認するのは難しいかもしれない。

 カラパイアでは折に触れ、海外でまとめられている情報をそのままの形でお伝えしているわけだが、今回は、米系ランキングまとめサイトにて特集されていた、「知られざる日本10の宗教的団体」である。
宗教、政治、スポーツは、時として人を戦争へと向かわせるほどの繊細なテーマである。繊細な故に取扱い注意であるし、個人的見解を述べる場合にも慎重になるべきであると考えている。以下の文章は、海外サイトの文章をなるべく原文に忠実に翻訳したものである。記述に間違いがある場合には、情報元の海外サイトに問い合わせてみてほしい。

 日本にはいつの時代もさまざまな形の信仰や神話があることが知られている。第二次大戦後、日本の新たな平和憲法は宗教の自由を定めた。しかし、すべての信仰を認めるこのものわかりの良さが、さまざまな奇妙なカルト教団を生む原因となった。もっとも最悪の教団は、1995年に東京の地下鉄をサリンで攻撃したオウム真理教だろう。それほど邪悪なものでなくても、リーダーや信者が常軌を逸している教団もあるということを、覚えておくべきだろう。
via:10 Bizarre Japanese Cults You’ve Probably Never Heard Of

林一記、過去から学ぶ国家ブランディング技術その1

鎖国から一転、近代化の波が押し寄せる明治時代の終りに暮らす日本人の様子が伝わる「着色写真」


 江戸時代から幕末にかけ、215年にも及ぶ長い鎖国期間が終焉を迎え、再び海外との貿易が始まった日本は、明治維新を経て西洋文明の先進的な技術や学問を吸収し文明開化が広がった。
 
 「西洋のものなら何でもよい」という考えすら出ていたという当時の政府は、「お雇い外国人」として技術や知識を持つ欧米人を招聘し、自国の学生たちを続々と海の向こうへと留学させ、国土には鉄道が敷かれ、電線が張り巡らされた。

 写真はそんな日本の様子をとどめることを可能にした新しい技術の一つだった。
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 1908年、横浜の商港で働いていたカナダの貿易会社の経営者、ハーバート・ゲデスは、滞在中に日本の風景や人々の写真を手彩色したポストカードを作り、多くの外国人旅行者に販売した。

 そこに垣間見える勤勉な職人たちや入念に手入れされた庭園の風景が、欧米人の目には伝統的かつ”時代を超えた”日本文化の象徴として映っていた。それはのどかに暮らす人々が技術革新を迎え、急速に新たな生活を築き上げていった時代でもあった。

 これらの写真には明治時代の終わりから大正時代の幕開けに向かう日本の姿が映し出されている。

年齢ではないんですね...

先週コミュニケーション能力に関するセミナーに行きました。
私の父よりも年が上の人も参加していて、色々な人との「会話」がありましたが、

そんなことできないの?
という人があまりにも多かった...

ちょっとショックでした...

いろんな人がいすぎますね。あぁ世界はまだまだ広いんだ...と思いました...

林一記、海外から見る「日本」を学ぶ⑨

1. 非情なる法制度

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盗人の手を切り落としたり、殺人者の首をはねたりするのは、同時代においては標準的なことかもしれないが、江戸幕府の犯罪に対する態度は実に厳格だ。

 例えば、盗難被害を報告しないことは、盗難を犯すのと同様に違法だった。盗人への流刑や死罪があったが、後の時代には額に入墨を入られるようにもなった。

 また裸にされ、3日間公衆の面前で座り続ける刑罰もあった。死罪は最も重大な犯罪にのみ適用されたが、処刑後に磔や晒し首になることもあった。なお切腹が許されたのは武士だけである。

 さらに当時の社会制度を維持するために、農民は移動の自由が大きく制限されていた。彼らが別の村へ移動できたのは、送り状という証書がある場合のみである。また彼らは着るものも決められ、苗字を名乗ることも許されなかった。武士を敬わなければならず、不敬のかどでいきなり切り捨てられることもあった。

 面白いのが田舎で行われた入れ札という制度で、放火や窃盗の犯人が見つからないとき、投票によって真犯人を決めるというものだ。このとき犯人とされた人物を弁護した者も同罪となり投獄された。

 落書起請という匿名の告発状を神社に落として、犯人を決める風習もあった。役人の汚職の告発などに一役買ったようだ。